Seized by the Moment

映画の感想を淡々と書くブログ

『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』

                       

 

ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』(2001年 アメリカ映画)

監督:ジョン・キャメロン・ミッチェル

 

 

■あらすじ

  全米各地を旅する売れないロック歌手のヘドウィグは共産主義体制下の東ドイツで生まれた。幼い頃のある日、母親から「愛の起源」についての話を聞かされる。アメリカ軍人ルーサーに出会い恋に落ちるまで、ヘドウィグはハンセルという名の男性だった。母親はルーサーと結婚しアメリカに渡れるよう、彼に名前とパスポートを与え、性別適合手術を受けさせた。だが手術は失敗し、股間には「怒りの1インチ(アングリー・インチ)」が残された。そして2人はアメリカへ渡ったのだが、ルーサーは最初の結婚記念日の日ヘドウィグのもとを去っていってしまう。それはベルリンの壁崩壊の日だった。絶望に暮れるヘドウィグは、昔抱いたロック歌手になる夢を思い起こし、韓国軍兵の妻たちを引連れバンドを結成する。アルバイトをしながら身を繋いでいたある日、同じくロックスターに憧れる17歳の少年トミーと出会う。ヘドウィグは彼を誰よりも愛しロックの全てを注ぎ込んだが、とうとう手術痕がばれて別れてしまう。彼は作った曲をすべて盗んだ挙句ヒットを飛ばし、いまや人気絶頂のロックスターに登りつめていた。ヘドウィグは自分のバンド「アングリー・インチ」を引きつれトミーの全米コンサートを追いかけながら巡業し、愛を捜し求めていく。

(Wikipediaより)

 

■評価

95点

 

■感想(以下ネタバレ)

 

 

  性、生、愛。その本質を探求することが私の創作活動における現時点の最大の主題である。そのためこの『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』を観て、私は頭を殴りつけられたかのような衝撃を受けた。

 

   プラトン、『愛の起源』。むかし、人間は「男男性」「女女性」「男女性」の3つの性をもっていて、彼らは頭が2つ、手足も4本ずつ持つ身体であった。彼らは賢く、神様たちを脅かすほどであった。困った神様たちは、人間の力を弱めるために、からだを半分に切り離してしまった。「男性」と「女性」の2つの性にわけられてしまった人間は、さみしくてたまらず、切られた分身を必死に探す。「男男」「女女」であった者は同性を求め、「男女」であった者は異性を求める。そしてもう一度いっしょになるために、一つの身体に戻るために私たちはキスをし、抱き合い、セックスをする。ヘドウィグはその「カタワレ」を探していた。

 

 この映画はゲイ映画として紹介されることが多いが、決して「女になれないトランスセクシャルの苦悩」を描いたものではなく、もっと人間の存在の本質に迫るような映画であると感じた。ヘドウィグが女になろうと決心したのは、彼自身が女性になりたかったからではなく、男性に愛される為であったからだ。『ヘドウィグ』は愛され、愛し合える「カタワレ」を見つけるために作り出された虚像であったのだ。しかし愛した人々には裏切られ、すれ違い、ヘドウィグはいつまでたっても「ひとつ」になれない。

 

                             

 

 幼き日のハンセルのように、あどけない心でロックを愛するトニーという少年はヘドウィグが心の底から、恋愛の域を超えて深く愛した人であった。しかしトニーはヘドウィグの愛を裏切り、のみならず彼の曲を盗作してロックスターへとのし上がる。物語の終盤で二人は再会し、トニーは過去を詫び、ヘドウィグも彼を赦し、彼らは「ひとつ」になろうとした。しかし、その瞬間彼らの乗っていた車が衝突事故を起こし、彼らは「ひとつ」になることができなかった。「カタワレ」になりかけたトニーだが、メディアに取り上げられた瞬間掌を返したようにヘドウィグの存在を否定した。幸か不幸かその事故をきっかけにヘドウィグは一躍有名人になり、『ヘドウィグ』という「作り出した女」の存在ばかりが一人歩きしていく。

 

 

Inside I'm hollowed out, outside's a paper shroud and all the rest's illusion 

(中は空洞、そとはかたびら、残りは幻想さ)

That there's a will and soul, that we can wrest control from chaos and confusion

(人には意思の力があって、運命を操れるなんて)

 

 ………望んでいた栄光を手にした筈なのに、どうして心は満たされないのだろう。彼は、「ヘドウィグ」が愛を求めるがまま作り出してしまった虚像の継接ぎ(コラージュ)で、愛を求めるまま「ヘドウィグ」を演じているうちに本当の自分を見失ってしまったことに気付いたのだ。そして彼は「ヘドウィグ」の派手な衣装、化粧、ウィッグを脱ぎ捨てる。ヘドウィグの殻から飛び出したのは一人の華奢な男。舞台は変わり、トミーのライブステージ。向かい合う二人はまるで鏡合わせのようによく似ている。トミーはヘドウィグに歌いかける。

 

           

 

You think that Luck  Has left you there

(運に見放されたって君は言うけど)
But maybe there's nothing  Up in the sky but air

(きっと天空には空気しかないのさ)

And there's no mystical design No cosmic lover preassigned.

(自然を超えた力も、運命で結ばれた恋人も)
There's nothing you can find  That can not be found

(きっと存在しないんだ もともとこの世には) 
Cos with all the changes  You've been through

(いろんなことに出会うたびに)
It seems the stranger's always you Alone again in some new

(君は他人のようになって 独りぼっちでたたずむ)

Wicked little town

(どこかの薄汚れた街で)

 

 「トミー」という存在は、純粋にロックを愛し、ロックスターに憧れを抱いていた幼き日の「ハンセル」自身を投影した存在であったのではないかと解釈している。「ヘドウィグ」という殻を脱ぎ捨てて、ただひたすらにロックンロールを愛していたハンセルの姿で彼は歌う。

 

   

 

Breath  Feel Love Give Free Know in you soul

(呼吸をしろ 愛を感じろ 自由を与えろ 魂で知れ)

Like your blood knows the way From you heart to your brain

(心臓から脳までの流れを  君の血が知っているように)

Know that you're whole

(君は完全体であると)

 

 ハンセルは、イツアクやトミー、そして『ヘドウィグ』を認め、解放した。彼は人間は一人きりでも完全体であることに気付き、彼の心はようやく一つになった。それなのに、ありのままの姿で夜道へ消えていく彼の姿はどうしてこんなに寂しいのだろう。どうしてこんなにむなしいのだろうか。

 

 この映画を観終わった後、私はしばらく動けなくなってしまった。心に大きな穴が開いてしまったような気持ちになり、その後胸を掻き毟られるような激しい気持ちに襲われる。未熟な私には、この感情に名前を与えることができない。まだ私にはわからないことが多すぎるのだ。私とは誰なのか。本物の私とは誰なのか。愛とは何か。何故人は愛し合うのか。知って、感じなければならないことが沢山ある気がする。『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』は私に新しい「きっかけ」を与えてくれた映画だと思う。

 

  この映画を私に勧めてくれた芸術家のNちゃんには最大の感謝を述べたい。また酒を飲み語り合える日は来るだろうか。

 

 

観た日:2015/01/13

観た場所:家

観た人:なし